卑弥呼倭女王と神功皇后 



卑弥呼の話は何故か日本書紀には出てこない。何故だろうかといつも疑問に思う。ただ、わずか「神功皇后」のところに「魏志倭人伝」の事件が小さな文字で挿入されているだけである。

魏志倭人伝と日本書紀、それに朝鮮歴史書とこの3個の接点が「神功」なのである。
   
  神功摂政前紀−−−新羅征討
  神功      神功帰還  応神誕生 忍熊王の乱
           半島 七国平定 百済との同盟

神功元年  忍熊王の乱 応神誕生
神功摂政5年 紀年では205年  人質 ミシコチホッカン 帰国
神功13年 角鹿の筒飯大神 
ここからぐんと飛んで 魏志倭人伝の記事

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神功39年(239年) 景初3年6月 倭女王  京都へ 朝献
神功40年(240年) 正始元年 詔書印綬
神功43年(243年) 正始4年 倭王 上献
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神功46年以降、半島関連の記事ばかりだが、百済記を史料として書かれている。ここから
「干支2運」さげて、神功46年(366年)と解釈してよい


以降、神功69年まであるが、その直前、神功66年(266年)  
普の時代 倭女王 貢献の記事が挿入されている。
    卑弥呼と神功は同じひとか?
    日本書紀の作者は倭女王卑弥呼と神功皇后をだぶらせてはいるが、加耶古代史観から
   分析すれば? 時期的には3世紀くらいとなって合致はするが、、、。
 

        神功   呉系( 高麗カヤ)  倭から半島へ北進
       卑弥呼  狗邪カヤ        半島から倭へ南進

   この両者はまったく相対立する集団で半島南部で交錯しているのである。 渡海路 考察 
  


狗邪系の進出ルート 北から南へ


  加耶古代史観では 卑弥呼集団は「狗邪系」となる。

  後漢の乱、中原から流れてきた 「鮮卑+漢」系集団である。 半島西部から南部へ回り、   巨済島へたどり着く。巨済島こそ海上交通の要所。鮮卑系は本来遊牧民族であり、海上交通は どうしてやったか?の疑問は残る。 
       
狗邪系(カヤ)
 (1) 巨済島 拠点 として 海路、さらに東進して洛東江河口へ 
−−新羅の前身(シラ) さらに洛東江上流へ展開 加羅に発展。

 (2) 海路、南へ向かったものは筑紫へ対馬、壱岐、奴、--------邪馬台国
加羅諸国へ発展 
  
  

(1) 巨済島 拠点 として 海路、さらに東進して洛東江河口へ
さらに洛東江流域東岸に展開 −−


    新羅の前身(シラ)で この狗邪系の進出により賀洛は攻撃される。

結果、賀洛からの第一の天孫降臨が開始する。時期は2世紀後半、倭の大乱の時期。 
卑弥呼集団に加えて半島から高麗系の倭への回帰もあって倭は騒然となる。
 
 狗邪系は洛東江を北上して「夫余」と融合、洛東江流域東岸に次の新羅が準備される。 
   トクノクニ (慶山)
   トクジュン (テグ)等


   

(2) 筑紫へ対馬、壱岐、奴、邪馬台国へ



   玄界灘沿岸から陸路南進するが、、。倭先住カヤ「クレ」系
    (魏志倭人伝では狗奴国)の抵抗が強く、なかなか陸路南進して筑紫に入れず、海路で迂回する。
  行き先は
   出雲を
   関門海峡をこえて、国東、宇佐、日向
   豊予海峡をこえて東進 伊予から阿波へ、淡路
   紀ノ川から大和へ
  
  邪馬台国は「狗邪系」進出の最前線である。邪馬台国の位置は可変、時代とともに変遷しているし、邪馬台国の比定地が多数あっても不思議ではない。
日向は後の「神武東征」の出発となるけれど、卑弥呼集団とも関係が深く、新羅の前身(シラ)の時代から拠点。 

   「狗邪カヤ」系は大和東南部へ入り、「崇神」系となる。 卑弥呼の時代と重なり、倭迹迹日百襲姫も「卑弥呼」に近くなる。 4世紀初めらしい最古の馬具木製輪鐙と思われるものが箸墓の周壕から出土 
     3世紀 崇神
   
     

(3)海岸部から内陸へ、洛東江流域西岸地域へ展開

狗邪系は洛東江を北上して「夫余」と融合して「伽耶諸国」となる。。南加羅、安羅洛東江流域に各地の小国ができる。 三国遺事での六伽耶
   
 日本書紀では加羅七国平定のとき出てくる国々。 トクジュンに集まり新羅のトクノクニを攻撃して獲得。 
    
    


住吉-神功皇后ルート  南から北へ 

     先住カヤ「呉」 倭に先住ししていた南方「呉」系が倭から半島へ進出する 
   天皇では 「仁徳」 また記紀では巧みに隠されているが、「竹内ー蘇我」系もこの系統に。

任那ー賀洛国 

   任那、すなわち賀洛国建国はAD45年?  

 崇神65年  任那は鶏林の西南の隅
 垂仁2年 任那人 ソナカシチ帰国

   
(1)日本書紀の記事を読むと 神功には任那はでてこない。 日本書紀では百済との同盟、新羅征討ばか

  
   百済は「コムナリ百済」
   加羅とコムナリ百済が連合して新羅を攻撃、 加羅七国平定 
   西に回り、トムタレを葬り、百済に与える。 実は「加羅」のことばかりで任那は出てこない。

(2)神功以前、崇神、垂仁時代にすでに任那は存在していることがわかる。任那は新羅から獲ったものでもない。
  
 加羅諸国ができあがる以前から任那はある。任那と新羅の争いはもう始まっている。
2世紀後半 
        

   


神功時代 新羅征討

呉系の半島新羅への反撃である。かって呉系が半島へ北上して賀洛を作ったように、再度呉系が北上。 呉系が新羅を押さえつけた貴重な時間。

狗邪系新羅は筑紫日向に前進基地を作る。 新羅への反撃のため、まず「襲」を追撃する。

 半島の狗邪系新羅は筑紫にもs出る。日向である。 日向のシラ前身基地をたたくには、まず半島の本拠をたたくべし。これが神功の新羅征討の動機。

 もちろん半島では狗邪系新羅が賀洛を圧倒。これを救援するために新羅征討に出かけるのが神功に代表される集団。 

   当時の勢力は
       
      洛東江河口 「呉クレ」
        西岸   金海     賀洛国 --「任那」  既に第一の天孫降臨は済み。
             倭から半島へ進出して確保した拠点
       
     垂仁2年 任那人「ソナカシチ」 国帰りたい 赤絹もたせて任那王に使わす
     途中、新羅人道をたえて奪う、二つの国の恨みはここに始まる    


      洛東江河口
        東岸   釜山 
                   ソラ 狗邪系新羅
                          集団の東進組 ---卑弥呼集団と同じ集団
    神功5年(205年)
    「ミシコチ」人質が国に帰る話の仲で、「たたら津」にやどりて「草羅城」を抜きて帰るとあり、その際、漢人を捕虜として連れ帰る話gある。これは半島からの具体的な移動の例